狛江の歴史

旧石器時代(紀元前10000年以上前)   旧石器時代の遺跡は、これまで市内では発見されていませんでしたが、先頃行われた弁財天池遺跡の 発掘調査で、槍先型尖頭器・ナイフ形石器・細石刃等の旧石器時代の石器が出土し、その存在が明らかになりました。
<<SockerBonはこの事実は「ねつ造」では無いと信じています。歴史的新発見ではなさそうだし・・・(^^;)...2000.11.10記載>>
縄文時代(紀元前10000年〜紀元前300年頃)   縄文時代は、草創・早・前・中・後・晩期の6時期に細分されています。
  古屋敷・相乃原遺跡からは、縄文時代でももっとも古い草創期の、有舌尖頭器と呼ばれる石器が出土し、 寺前東遺跡では、前期の竪穴式住居跡(この住居の形式は時代により多少の変化はありますが、一般的 住居形態として平安時代末頃まで続きます)が2軒発見されています。また中期では、弁財天池遺跡において、 柄鏡形敷石住居跡を含む大規模な集落跡が発掘されています。
弥生時代(紀元前300年〜3世紀頃)   弥生時代になると、大陸からの稲作農耕や金属器の伝承によって、日本列島に米作りを 基礎にした農耕社会が成立します。この頃になると人々は共同で農作業を行うようになり、その指導者 はやがて強大な権力者となっていきます。
  弁財天池遺跡で発掘された方形集溝墓はこうした権力者の墳墓で、方形に廻らせた溝の 内側の埋葬施設内からは、その権勢を示す鉄製品や銅製の腕輪等の副葬品が出土しています。
古墳時代(4世紀〜7世紀頃)   この時代は、畿内を中心とする大和朝廷の統一期にあたります。狛江では、この地域の 有力な豪族の墓である古墳が5世紀前半から6世紀後半にかけて、狛江百塚と呼ばれるほど集中的に 造られます。特にその中で盟主的な位置を占めたのは5世紀末から6世紀初頭に造られた亀塚古墳で、 狛江で唯一の帆立貝式の前方後円墳です。
  狛江古墳群は、およそ70基ほどあったと思われますが、現存するものは兜塚古墳、 土屋塚古墳等13基となってしまいました。
  この時代の集落跡は、和泉遺跡や古屋敷・相乃原遺跡等で発見されています。特に 和泉遺跡は南関東地方におけるこの時期の土師器の標準資料である「和泉式土器」がはじめて発見され、 その型式名にもなった著名な遺跡です。
奈良・平安時代(8世紀〜12世紀頃)   大化の改新によって、公地公民を基とする律令制度が施行されると、地方制度も 国・郡・里(郷)と整備されます。これに基づいて武蔵国にも国府が置かれ、やがて国分寺・国文尼寺 が創建されるようになります。この武蔵国分寺跡から出土した瓦の中に「狛江」の文字が認められる 事から、この時期にはすでにこの地名があったことがうかがわれます。また平安時代初め頃の文献には 「武蔵野国多磨郡狛江郷」の記載も見られるようになります。この時代の遺跡は市内でも比較的多く 発見されていますが、特に久保・前原遺跡では、大形の住居跡から、当時の役人が身につけた帯飾り等 が出土しました。
中世(12世紀〜16世紀頃)   源頼朝は、建久3年(1192)に誠意大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開きました。
  この頃の市域は、武蔵七党の一つに西党からわかれた狛江氏の勢力下にありました。 狛江氏はこの付近一帯が狛江郷といわれていたところから、この郷の名をとった武士で、調布市 佐須町に館があったと伝えられています。
  その後の市域のことは、よくわからず、再び歴史上に現れてくるのは、戦国時代に 入ってからです。戦国時代の市域は、小田原の北条市の支配下にありました。永禄2年(1559)の 『小田原衆所領役帳』に江戸衆太田新六朗(道灌の曽孫)の知行として、「駒井本郷」の名が見えており、 集落があったことがうかがわれます。
近世(17世紀〜19世紀頃)   徳川家康は、天正18年(1590)に関東に入国し江戸を居城と定め、慶長8年(1603)には 征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きました。
  徳川氏が入国した頃の市域は、おおかた徳川氏の直轄地(天領)になったと思われます。 天正19年には、和泉村の一部が旗本石谷氏に与えられ、泉竜寺の門前辺りに屋敷を構えました。その後、 寛永10年(1633)には和泉村と猪方村の一部、岩戸村が彦根藩主井伊氏に与えられるなど、市域は 江戸時代を通じて代官(天領)、大名、旗本等の支配下にありました。
  江戸時代の市域は、和泉村、猪方村、岩戸村、駒井村、覚東村、小足立村の6か村から成っており、 その主な産業は農業で、江戸の近郊農村として発展しました。用水は、六郷用水や野川、泉竜寺弁財天池の 湧水などを利用していました。六郷用水は、多摩川の水を五本松の上流で取り入れ、市役所の裏で 野川と合流させて、世田谷や大田の村々へ送った全長約23qにも及ぶ灌漑用水路で、市域の和泉村、猪方村、 岩戸村をはじめとして世田谷、大田の49か村の水田をうるおしました。
  文化・文政(1804〜1830)頃、各村の戸数は、和泉村が120戸、猪方が42戸、岩戸村が50戸、 駒井村が30戸、覚東村が19戸、小足立村が29戸で市域の総戸数は290戸を数えています。
近代・現代(19世紀〜20世紀)   慶長3年(1867)の大政奉還により江戸幕府は滅亡し、翌年、江戸を 東京と改称し、9月には、年号を明治と改めました。
  明治5年(1872)に市域は、神奈川県に属するようになり、11年に多摩郡が 西・南・北の三郡にわけられた時には北多摩郡に属しました。
  明治5年、学制が定められ、狛江でも翌6年に泉竜寺の建物を利用して 観聚学舎という小学校を作りました。
  10年代に入ると、自由民権運動が盛んになり、狛江でも、交潤講益社 等の結社ができたり、自由改進党の名簿に名を連ねる民権家が生まれています。
  明治22年4月、町村制の施行により、和泉村、猪方村、岩戸村、駒井村、 覚東村、小足立村の6か村が合併し、狛江村が誕生しました。当時の人口は2,207人でした。
  26年4月、神奈川県から東京府に編入、45年には、稲田村宿河原の一部を編入しました。
  大正12年(1923)9月1日の関東大震災では、3人の方が市外で亡くなっていますが、 市内では、ほとんど被害は無く、土蔵の壁が崩れる程度ですみました。
  翌13年、江戸時代に多摩川の洪水により流失したままであった万葉歌碑が 現在地に再建され、除幕式が行われました。
  昭和2年(1927)4月、小田急線が開通し、和泉多摩川駅が、5月には狛江駅が 設けられ、都心との交通が大変便利になりました。
  16年には、太平洋戦争が始まり、18年には、東京都制が施行され、東京府から 東京都になりました。20年5月25日の空襲では、狛江国民学校と付近の民家が焼失しました。
  戦後、27年11月には町制を施行し、狛江町となりました。翌28年には多摩川水道橋ができ、 長い間、親しまれてきた登戸の渡しがなくなりました。
  その後、東京のベッドタウンとして発展し、35年には、21,485人であった人口が、 45年には、57,468人と10年間で約2.7倍と急激に増え、45年10月1日に、市制を施行してして 現在に至っています。
資料元 平成9年3月発行「豊かさ・うるおい 暮らしのガイド」編集:狛江市企画広報課

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